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2019年11月27日放送のほっかいどう歴史散歩。
石狩川と千歳川が合流する場所「江別」。
明治時代から物流の要として発展してきた場所。
二つの川の合流地点にかってあったものとは?
江別木工所
江別は古くから川を使って物資が運ばれてきた場所。
この合流地点には江別木工所という木材の工場がたっていた。
その工場から当時の函館本線に向かって線路が引かれていた。
まず明治35年に千歳川(別名「江別川」)に沿って江別川線が敷かれた。
そして、その2年後、明治37年に石狩川線が敷かれた。
そのどちらもが人力軌道であった。
この場所では毎年数十万本の木材が陸地に上げられていた。
それをレールの上の貨車に載せて人や馬の力で木材を運んでいた。
この人力軌道は後に町営として江別町が管理し1945年(昭和20年)まで使われていた。
江当軌道
かって江別と当別を結ぶ路線「江当軌道」があった。
江別の“江”と当別の”当”から、その名前は付けられた。
江別と当別の間(全長11.5㎞)を所要時間50分で繋いでいた。
1日4往復のダイヤだった。
人や物資を鉄道に載せて札幌などの大消費地に江別経由で運ぶのが役目だった。
しかし経営は赤字続きで、わずか10年で廃線になってしまった。
北海道電力江別火力発電所専用線
江別蔦屋書店裏にある遊歩道「四季の道」。
ここには当時実際に使われていたディーゼル機関車(形式セキ8000)が展示。
1935年(昭和10年)に大日本電力(今の北電)の火力発電所が江別にできた。
北海道電力江別火力発電所専用線は、発電所に燃料である石炭を運ぶ為の線路だった。
製紙工場専用線
江別駅から分岐したもう一つの線路。
1907年(明治40年)にできた製紙工場の専用線。
このように江別の産業を支える路線がいくつもつくられたのが江別の歴史。
北海道炭礦汽船夕張鉄道線
1926年(大正15年)に開業。
1930年(昭和5年)に野幌-新夕張の全線が開通した。
夕張炭鉱の事業用資材や採掘した石炭を運ぶ為に作られた。
現在、野幌駅は高架となり、かっての面影はないが旧夕張鉄道跡地はきらら街道として整備されている。
きらら街道の特徴
きらら街道沿いの住居は道路に背を向けて建てられている。
鉄道が走っている側からは出られないのがその理由。
これが、かって鉄道だった証。
幻の札幌急行鉄道
かって、上江別から札幌三越前までの20.5㎞を線路で繋ぐ計画があった。
名づけて札幌急行鉄道。
元江別・雁来・豊平川を通って、ついには札幌の三越前まで到達する計画。
この計画に意欲を燃やしていたのが東急の会長の五島慶太。
東急は1957年(昭和32年)に定山渓鉄道を買収。
1958年(昭和33年)に来道した際の様子がフィルムにも収められている。
既に買収した定山渓鉄道と連結して、札幌圏に一大私鉄網を作ろうとした一大計画だった。
夕張鉄道のオーナーである北海道炭礦の同意もとりつけて共同で免許を申請。
しかし、その申請は1960年(昭和35年)に取り下げられてしまう。
それは前年の1959年(昭和34年)に五島慶太が死去してしまったから。
五島慶太の死去後、東急は事業再編に取り組み、いくつかの計画が中止された。
もし、この計画が成功していたら、今の札幌駅周辺中心の発展とは違った形の札幌がみられたかもしれない。
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