ニッポン無名偉人伝5ハワイ日系人の尊厳を守った牧野金三郎


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日本と米国のかけはしとなった牧野金三郎

ニッポン無名偉人伝5 2014年12月30日放送。

ハワイで日系人の生活を守った男。

牧野金三郎をクローズアップ。

ハワイは日本でも人気の観光地。

しかしそれ以外にも二つの地を結ぶ歴史がある。

22歳でハワイへ移民した牧野金三郎

1877年8月28日に横浜で生まれた牧野金三郎

母親は日本人、父親はイギリス人。

ハワイへの移民誘致

ハワイの労働者を補うため明治政府へ移民を依頼。

依頼したのはハワイの王様・カラカウア。

3年間で400円稼げるが謳い文句だった。

18万人の日本人がハワイへ移住。

ハワイの人口の3分の1を占めた。

日本人労働者な劣悪な環境 奴隷のような扱いだった。

移民した多くの日本人はサトウキビ畑で働いた。

彼らは棄民と呼ばれた。

国に見捨てられた人々。

粗末な家に住み、不法な取り扱いを受けた。

ハワイ報知を創刊

薬局や法律事務所を立ち上げた牧野金三郎

1912年ハワイ報知を創刊。

はわいには「布哇」の字が使われた。

本社の主義は

「日本人の利権を伸展せんがためには全力を傾注するを辞せざるなり。」

新聞社創刊のきっかけは日本人の給料の低さ。

1日77セントの賃金が日本人の相場だった。

アメリカ人の5分の1。

1909年、オアフ島で日本人のストライキ。

牧野金三郎は逮捕・連行された。

「誰が日本人側の意見を代行するんだ」

その憤りが牧野金三郎を動かした。

新聞の力で日本人の地位を向上させたい。

日本人に付けられたバンゴー

ハワイのビショップミュージアム。

ハワイの歴史や文化を知ることができる施設。

丸い金属板に数字が印字されている。

これは「バンゴー」と呼ばれていたもの。

首から下げて書かれていたバンゴー(番号)で呼ばれた。

日本人労働者を管理するために使われた。

管理していたのは白人。

日本語の発音が難しく、バンゴーで呼んでいた。

人権無視の状態。

買い物をするときにもバンゴーは必要だった。

買い物は基本ツケ。

バンゴーで管理され、
給料日に差し引かれて支給。

数珠繋ぎ結婚

最初ハワイに移住したのは男性。

日本に写真を送り花嫁を募った。

写真を見て、夢を膨らませてハワイに来た花嫁たち。

しかし待っていたのは数珠繋ぎ結婚式。

1列ずつ並ばされた花嫁たち。

その横に男性も1列に並ぶ。

男女横になった者同志が婚姻。

まるで物扱い。

コンベアのように婚姻が進んでいく。

婚姻をしなければ花嫁たちは入国を拒否された。

意志の自由、信仰の自由の抑制。

人間の結婚式とは思われない。

牧野金三郎はハワイ報知で抗議し続けた。

数珠繋ぎ結婚式は5年後の1917年に廃止となった。

日本人学校閉鎖を阻止

1920年ごろのアメリカ。

第一次世界大戦後、愛国運動が盛んに。

アメリカ国内では外国語排斥運動が起きていた。

自由の国、アメリカ。

当時は誰もが自由というわけではなかった。

ハワイでの日本語学校も標的になった。

一時閉鎖された日本語学校。

牧野金三郎は6年間法廷で戦った。

しかし、広告は次々と打ち切られた。

社員の給料が払えない。

ハワイ報知は崖っぷちだった。

それを救ったのは妻・道枝さん。

嫁入りのときに母親から託されたお金。

牧野金三郎に差し出した。

ハワイ報知は倒産せず、裁判も続けられた。

1927年、勝訴となった。

ハワイ日本語学校の意義

1910年に創立されたマノア日本語学校。

日本語のほか柔道や合気道を学べる。

自分たちの子供たちに日本語を教えたい。

そんな親たちの気持ちで創られた。

日本の文化や歴史を学んでほしい。

より良いコミュニケーションを取ってほしい。

子供たちも将来日本に行きたい。

両親が日本語を話せることを希望。

など、日本語や文化を学ぶことに意欲的。

マノア日本語学校では日本の行事も教えている。

今の日本以上に昔の日本を大切にしている。

今の日本人にとっても教えられること大。

日本軍による真珠湾攻撃

1941年12月8日。

日本軍が真珠湾攻撃。

遭ってほしくないことが現実になった。

日系人たちは窮地に立たされた。

日本語学校の校長、お坊さん。

牧野金三郎もスパイ容疑を掛けられた。

連行されたのは370人。

日系人はジャップと蔑まれた。

アメリカに忠誠を誓う必要性があった。

第100歩兵大隊

日系人たちの部隊。

「100」はどこにも所属しないことを意味する。

日本人の顔でアメリカの軍服。

敵との戦いと、それと日系人への差別との戦い。

第100歩兵大隊に所属にしていた。

イタリアのカッシーノでも戦った。

食べ物も弾も水もない環境。

1年間一緒にトレーニングしたタマシロが亡くなった。

見た目怪我をしているようには見えなかった。

ヘルメットを外し、まるで眠っているようだった。

しかし、タマシロは亡くなっていた。

忘れられない光景。

1946年7月、トルーマン大統領から感謝状を授与。

敵だけでなく、人種差別とも戦い、勝ったと称賛。

素顔の牧野金三郎

2番目の父と母。

ヘラルド・フジセは牧野夫妻をそう呼ぶ。

子供のいない牧野夫妻。

週末には食事をごちそうしてくれた。

牧野金三郎は笑顔をあまり見せない。

が、子供には優しかった。

妻・道枝さんはいつも笑顔だった。

牧野金三郎の甥、ヤマサキも語る。

牧野金三郎はハワイの日系人を救った人。

でも自分にはただ優しいおじさんだった。

外国の人と接して、文化などを学んでほしい。

そうすることが戦争のない世界に繋がる。

そうあってほしいと祈る。

牧野金三郎は、1953年2月17日に永眠。

その死後4年経った1957 年、天皇陛下より銀杯を下賜された。

 

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