ファミリーヒストリー又吉直樹の祖父宝善のハワイ生活を追う


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7月24日放送のファミリーヒストリー。

この日は又吉直樹の祖父の人生を追う。

祖父・又吉宝善の人生とは?

謎の多い祖父・又吉宝善の人生

英語が話せていた祖父・宝善

どうして英語を話すことができたのか?

ハワイに住んでいたらしい。

又吉直樹の父・巳敏は覚えていた。

家に外国人が来た日のことを。

しかし、どうして来たのかは不明。

自分の事をあまり語らなかった祖父・宝善

祖父・宝善はどんな人生を歩んだのか?

16歳でハワイへ行った祖父

祖父・宝善が生まれた時。

曽祖父はそばにいなかった。

曽祖父がいた場所はハワイ。

ハワイへの出稼ぎ。

そして1924年、16歳の宝善はハワイへ。

ハワイのどこに行ったのか?

ハワイ沖縄センターには手がかりがあった。

資料によると1924年、ヒロに向かった。

ハワイ島のヒロ。

サトウキビの大きなプランテーションがあった場所。

過酷な生活環境

当時のハワイでの生活は悲惨なものだった。

安い賃金、劣悪な労働環境、差別。

賃金は1日50セントから1ドル。

たくさんの家族をどうやって養うのか?

日系人の中でも沖縄は言葉が違う。

そのため、差別されていた。

祖父・宝善はどのように働いたのか?

コックをしていた祖父・宝善

古い住所録に宝善の名前があった。

職業は”コック”。

6歳上の兄・寶傳(ほうでん)がホノルルでレストランを経営。

英語が話せない宝善は皿洗いをしていた。

料理も勉強しながら英語も学んだ。

当時、沖縄料理は敬遠された。

沖縄出身者の強い結束

暮らしは貧しく、差別も多かった。

何か事業を始めたくても銀行は融資してくれない。

沖縄の人たちは力を合わせた。

始めたのが、頼母子講(たのもしこう)。

それによって資金を得ることができた。

祖父・宝善の小さな家族

祖父・宝善はハワイで家族がいた。

それを表す証拠は何もない。

しかし、仏壇に置かれた位牌の後ろにメモがあった。

亡くなった家族の名前と、法事を行った日付。

その中に又吉エミ子の名前。

昭和8年5月15日に死去。

2歳で亡くなっていた祖父・宝善の娘。

その5年後、兄・寶傳も35歳で亡くなる。

パン屋で働いた祖父・宝善

頼みの兄が亡くなった後、マウイ島へ渡った宝善

町の外れのパン屋さんへ就職。

ナシワ(梨羽)ベーカリー。

そこで住み込みで働いた宝善

当時の写真が見つかった。

機械に寄りかかっている祖父・宝善、32歳。

沖縄の家族も知らなかった写真。

若き日の姿。

ここで3年間働きお金を貯めていた。

沖縄に帰ると決めていたから。

ハワイには娘も兄もいない。

ハワイにいる理由がなくなった。

17年間暮らしたハワイを後にする。

祖父の若い頃の写真を見て語る

祖父・宝善の写真は晩年のものばかりだった。

この番組のおかげで若い頃の写真を見る事ができた。

又吉直樹はじめ叔母たちは興奮。

白髪でない祖父・宝善の姿。

しかし、目も口も耳も祖父そのもの。

「カワイイ!」と言う人もいた。

ハワイでの話も半信半疑だった又吉直樹。

しかし、これで確信が持てた。

祖父の再婚

祖父・宝善がハワイを出た半年後。

太平洋戦争が勃発。

その頃、祖父・宝善は汀間に住んでいた。

沖縄に戻って2年後、13歳年下の娘と結婚。

結婚相手が祖母・千代93歳。

今では孫18人、ひ孫は13人。

結婚して1年後、長男・宝定が生まれる。

祖父と戦争

長男が生まれてから3か月後。

防衛隊として召集された。

37歳の祖父・宝善

妻に「子供のことを頼む」と言い残した。

沖縄本島の西に浮かぶ伊江島。

第502特設設備工兵隊。

それが又吉宝善が配属された部隊。

島内各地の地下壕でアメリカ軍の攻撃に備えた。

1945年4月16日、米軍が伊江島に上陸。

防衛隊にある武器は竹やりと手りゅう弾。

多くの仲間が死んでいった。 

集団自決する者さえもいた。

きっと息子に会いたかったでしょう。

投降か死か

祖父・宝善のいた壕に入っていたのは15人。

アメリカ軍が壕の前で叫んでいた。

英語の話せる宝善には言葉の意味がわかった。

それは投降の呼びかけだった。

壕の手を上げて外に出た。

英語で話した祖父・宝善

裸にされ、薬で消毒。

アメリカの服を着せられた。

祖父・宝善の英語のおかげで助かった。

防衛隊の人が後でお礼に来た。

そして、戦争は終わった。

悲しい事実

無事帰って来た祖父・宝善

しかし、悲しい事実が待っていた。

長男・宝定は亡くなっていた。

耳の辺りにできたおできが化膿。

最愛の息子の生死に立ち会えることが出来なかった。

又吉直樹の叔母、浩美は亡くなった兄の事を知らない。

父親からは何も聞いていない。

「聞きたかったですね」

涙ながらに語ってくれた。

アメリカ占領下の沖縄

基地周辺の街はアメリカ軍相手の店が並んだ。

英語が話せると条件のいい仕事が付くことができた。

祖父・宝善は基地内でコックとして働いた。

家族と離れての暮らし。

1946年5月祖父・宝善に嬉しい報せが来た。

長女・初美が生まれた。

38歳での子供。

長男の生まれ代わりと喜んだ。

宝善は基地での仕事を辞め、家族と暮らした。

次に選んだ仕事は農業。

お金はなく貧しい生活だった。

子供たちも手伝った。

10時と3時の休憩時間にはアイスを食べた。

その時、祖父は嬉しそうな顔をしていた。

7人の子供たちを育てた宝善

暮らしは楽ではなかった。

しかし、家族が一緒に暮らせることができた。

それが宝善の欲しかったものなのでは?

貧しいからこそ力を合わせる

祖父・宝善の農業日記がある。

1月にはたくさんの人たちの名前が記入されている。

これは収穫を助けてくれた人たちの名前。

ハワイで教えてもらった助け合いの心。

それを忘れることはなかった。

「心が一番上等だった」

宝善を知っている人はそう語る。

自分が貧しくても人を助ける気持ちは忘れない。

ルーツを辿った感想

ハワイと戦争。

辛い経験をした祖父・宝善

「生きていてくれて良かった」

そう思う又吉直樹。

長生きしてくれたら、今ならもっと聞くことができた。

たくさんの人に好かれているのがわかった。

祖父・宝善と又吉直樹との出会い

又吉直樹には祖父・宝善の記憶はない。

周りの人から聞く情報のみ。

しかし、一度だけ二人は会っていた。

長男にできた初めての男の子。

祖父・宝善はとても喜んだ。

大阪と沖縄は遠い。

なかなか会うことはできなかった。

それは又吉直樹が1歳と2か月の頃。

病気だった祖父・宝善

又吉直樹の足をさすっていた祖父。

その4か月後に他界。

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