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7月11日放送のサワコの朝。
ゲストは宇崎竜童と阿木燿子夫妻。
宇崎竜童は69歳。
阿木燿子はなんと70歳。
ほんと若くて、美しいので驚愕!
結婚45年。
馴れ初めから音楽活動まで語ってくれました。
宇崎竜童はアイビー学生だった
明治大学の同級だった宇崎竜童と阿木燿子。
軽音楽部だった。
入学したての阿木燿子。
初めて校門をくぐった時声をかけられた。
それが宇崎竜童。
部員の勧誘だった。
アイビー姿の宇崎竜童。
当時、学生服が多かったのでとても目立った。
おしゃれな印象を持った阿木燿子。
宇崎竜童の一目惚れ
宇崎竜童に軽音楽部に勧誘された阿木燿子。
歌も楽器もできないと答えた。
しかし、「僕が教えます」とサポート。
阿木燿子に一目ぼれしたから。
未来の嫁さんだと認定。
すぐにでも結婚したかった宇崎竜童。
上手く交わす阿木燿子。
そんな日々がずっと続いていた。
これじゃあ、一生結婚できない。
来週、結婚しよう。
強引に結婚した二人だったのです。
なんだかんだと両想いだった二人。
宇崎竜童に刺激を与える阿木燿子の詞
学生時代から作曲をしていた宇崎竜童。
誰でもいいから詞を書いてほしいと依頼。
身の回りの多くの人に作詞を依頼。
阿木燿子も作詞を頼まれた一人。
文章を書くのは苦手な作業だった。
その詞に刺激を受けた。
作曲家心を動かす詞だった。
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ
阿木燿子の作詞家デビュー作。
「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
セリフを語るような歌。
チラシの裏に鉛筆で書いた詞。
コタツの上に置いてあった。
アルバムのコンセプトは「脱どん底」
お店を転々と移る女性のことを書いた。
”ヨ”から始まる言葉が3つ続く。
サビを作るのはあっという間。
しかし、それ以外には苦しんだ。
「ちょっと前なら憶えちゃいるが・・・」
どうしてもこの部分がスーダラ節になる。
一度浮かんだらスーダラ節が離れない。
困った宇崎竜童。
それでしゃべってみることに。
山口百恵との出会い
横須賀ストーリー
70曲提供
30年ぶりに山口百恵と再会
昭和のアイドル山口百恵から仕事の依頼。
山口百恵に引退まで約70曲を提供。
引退後30年ぶりに会った。
それは4・5年前のこと。
食事に誘った宇崎竜童。
山口百恵に聞きたいことがあった。
どうして宇崎竜童と阿木燿子を指名したのか。
依頼の電話は山口百恵本人だった。
でもレコード会社の人が決めた事なのか?
それは山口百恵本人だった。
山口百恵が宇崎竜童と阿木燿子を指名
アイドルがとっても遠い存在だった時代。
レコード会社のいいなりになるアイドルがほとんど。
それなのに16歳だった山口百恵の意見が採用。
仕事では面識があった3人。
多分バラードを聴いてこういう曲も作れるんだ。
そう思ってオーダーしてくれた。
山口百恵に感じるものがあったのだろう。
プレイバックPart2
1978年に山口百恵に提供した曲。
当時19歳の山口百恵。
「坊や・・・」のセリフは迫力があった。
年齢よりも大人に思えた。
「馬鹿にしないでよ そっちのせいよ」
2回出てくるセリフ。
山口百恵は見事に自分のものにした。
歌い方を変えて来た。
2度目はせつない感じで歌っている。
まだ20歳前なのに、女性の機微を表現。
プレイバック後の2秒の空白
サビの「プレイバック プレイバック・・・」
その後に2秒空白がある。
曲の中で無音の時間がある。
聴いている人が聴き耳を立ててほしかった。
それとプレイバック。
巻き戻す時間を表していた。
ちゃんと考えているんですね。
この曲を作るのは早かった宇崎竜童。
15分から30分で製作。
しかし、その前に2曲ダメ出し。
苦労した記憶がある阿木燿子。
憶えがなかった宇崎竜童。
仕事の縁で結ばれた夫婦
「結婚して良かった・・・」
宇崎竜童に泣かれたことがある阿木燿子。
宇崎竜童を感動させる詞を書いた時。
尊敬する気持ちも夫婦には必要。
阿木燿子の詞に感銘を受ける。
阿木燿子からダメ出し
しかし、宇崎竜童が先に作曲。
阿木燿子があとから詞を付ける。
懸命に作曲しているつもり。
なのにダメ出しされる。
「ピンと来ない」
それが阿木燿子の言葉。
それが更にエスカレート。
「これでいいの?」
遺作になるかもしれないと言われる。
もっといいものを作らねば。
頑張る宇崎竜童なのです。
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