笑ってコラえて名前の旅!でつづれ織りの小玉さんに出会った


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[笑ってコラえて] ブログ村キーワード

2018年7月11日の

日本列島名前の旅!コーナー~。

すごーい小玉さんを探すことに…。

”小玉 日本屈指 職人”をキーワードに検索。

京都にスゴーイ小玉さんを発見。

小玉紫泉さんってどんな人?

京都西陣織小玉紫泉つづれ織工房が検索結果に。

小玉紫泉さんは、その工房の主宰者。

分業が主流の西陣で図案、糸、織と全てをこなすスゴイ女性。

西陣は応仁の乱で西軍の陣となった事が由来の土地。

西陣織とは糸の段階で染めてから織る先染め絹織物の総称。

特に有名なのは帯。

帯の全国市場のほぼ8割を占めるほど。

小玉紫泉さんが有名になったきっかけ。

それは、女性自身2017年の7月18日号。

シリーズ人間というコーナーで取り上げられた。

題して、パートのおばちゃん西陣織の異端児になる!

その記事の中で紹介されていた小玉紫泉さんの技術。

それは爪掻本(つめかきほん)つづれ織り。

スタッフは爪掻本(つめかきほん)つづれ織りとは何かを探るため、小玉紫泉さんのアトリエを訪問。

伝統工芸士のアトリエ

小玉さんの作品 ”動 日本海”。

冷たい荒波が岩にぶつかって飛び散る姿を描いた。

銀泊を使った糸。

光のあたり具合で色が変わる。

次の作品は”リヨンの風”。

フランスの風景を織ったもの。

和装の帯には珍しい柄。

ここで、小玉賞の贈呈。

小玉紫泉さんは意味が解らずあぜん。

織物の基本

織物とは緯糸と経糸を交差させて作る布。

基本の織り方が平織。

織機にはペダルを踏んでタテ糸を引き下げる装置がついている。

ペダルを踏んでタテ糸に隙間を開ける。

そのすき間にヨコ糸を通す。

置く位置はタテ糸に対して垂直。

こうすることで一本一本交互にヨコ糸が入っていく。

そして再び脚を踏みかえて手前に打ち込む。

打ち込みがしっかりした生地というのは、こういう事を言うんですね。

この動作を何度も繰り返して織物が出来上がるという訳。

綴れ織りの織り方

先ず、ヨコ糸は普通に入れる。

そして、ヨコ糸を斜め35度にして織りこむ。

綴れ織りは平織よりも緯糸を長くとって織る。

だぶついた糸を打ち込みで押し込むのでタテ糸がヨコ糸で見えなくなる。

では、爪掻本綴織りとは?

伸びた爪の先をギザギザの形に研ぐ。

最近環境問題に関心がある小玉さん。

今回の作品の柄は氷河から水が流れ落ちている様子。

その一部を織ることに。

先ず、下絵をタテ糸の下にセット。

この下絵を頼りに織っていく。

必要な経糸をすくって爪で寄せて織る。

だから爪掻本綴れ。

先ほど、織機でやった35度斜めのヨコ糸を織る作業を爪で再現。

綴れ織りにはタテ糸1㎜に対してヨコ糸を5回織るという規定がある。

つまり20センチ織る時は1000回織らなければならない。

一般的な帯の長さ4mの場合は2万回織るということ。

裏返すと同じ柄が存在する。

何故かというとヨコ糸を織りこんでタテ糸を包んでいるから。

そして小玉紫泉さんは図案作成、糸染め、整経、機織りの全てを一人で行う。

そして驚いたことに、小玉紫泉さんは、この技術を独学で習得。

たまたまパートに入ったのが、つづれ屋さんだった。

小玉紫泉さんのプロフィール

1952年、本名 古田早千子さんは大阪市旭区に三人姉妹の次女として生まれる。

両親はお菓子屋を経営。

実験や発明が大好き。

学校では図工、数学の成績がよく、将来の夢は数学者だった。

勉強はクイズだと思っていた。

試験というのは自分の実力を測るもの。

だから試験勉強はズルをしているように感じた。

高校1年までその思いは続いた。

勉強しなくてもトップクラスの成績。

しかし母親が病気になり大学受験を断念。

高卒で商社へ就職した。

ご主人俊男さんとの出会い

19歳の夏、友人たちと海に出かけた。

そこで将来の夫、小玉俊男さんと出会う。

俊男さんは7つ上で大阪府警に勤務。

最初から、小玉俊男さんとは名前をきかなくても再開できる予感があった。

しばらくして電話がかかってきて付きあいが始まった。

結婚後、1男1女をもうけた。

そして結婚後から6年半、俊男さんの実家・西陣に引っ越す。

義理の両親との同居生活が始まる。

小玉俊男さんの給料だけでの生活は大変。

それで仕事を始めることにした。

西陣で仕事をするきっかけ

将来ブティックを経営したかった紫泉さん。

洋裁の仕事を探している途中で姑さんから声をかけられた。

西陣に来たんだから西陣の仕事をしなさい!

それならと、近所でのつづれ織り工場でパートの仕事を見つけた。

初出勤日。

なぜか姑が代わりに出勤すると紫泉さんを引き留める。

そして自分が習って教えたると言う。

そして3日目。

1時間で帰宅してきた姑。

あんな面倒くさいこと、ようできない。

ウチの嫁もようしませんと言ってきたと。

それに驚いて飛んで会社に行った。

土下座して謝罪。

仕方ないな~と出勤を許可される。

織り手修行時代

しかし、次の日から風当たりは一層深まった。

柄織は20歳までに覚えないとできない。

当時28歳だった紫泉さんは、無地ばかり織らされた。

無地がやっと織れるようになった1年半後。

義母が病気。

せっかく覚えたパートを辞めなければならなくなった。

その時、主人に、もう少し仕事を続けたかったと話した。

その答えが、1年半もしたんだから一人立ちできるやろ。

小玉紫泉の誕生

その無茶ぶりに応えて1982年30歳で独立。

翌年には小玉紫泉を名乗った。

誰も教えてくれる人などいない。

パート時代の記憶をたどって、自分で試作する。

その試行錯誤の繰り返しで、今の技術に辿り着いた。

少女時代の理科的な観察力、数学的な推察力が支えになった。

そして、業界で年に1回行われる秀作発表会。

その時、現物の作品を穴が開くほど観察。

それからは快進撃。

独立わずか6年後の1988年、Sun setという作品を発表。

京都新聞社賞の技術賞を獲得。

1994年、月影。

通産省生活局長賞グランプリ。

ところが、この作品に帯業界からイチャモン。

アイデアだけで技術はないと。

そして、図案入札会で売れ残った図案を押し付けられる。

それが動ー日本海の図案のもとになったもの。

図案が複雑すぎて誰にもできない。

こんなん、小玉さんしか出来へんわなと言われてあてがわれてしまった。

100%のイヤミ。

これをなんとかやり遂げた小玉さん。

最高賞である通産省生活局長賞を受賞。

これで技術も文句なしの1等賞。

夫の励ましと海外雄飛

その後、西陣業界は不況に突入。

夫に全然売れないと愚痴。

そしたら、売れないんだったら売りたくないものを作れと。

おまえが死んだら、おまえの作品を集めた美術館を建ててやると。

そう励ましてくれた夫もガンで他界。

その後、小玉紫泉さんの活動は海外にも拡がる。

2010年には伝統工芸士の仲間とパリで展示会とファッションショーを開催。

夫の願いを叶えた小玉紫泉さん。

人生を振り返ると、いつもそこに夫の俊男さんがいた。

だから、つづれ織りは夫婦の共同作品なんだと。

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