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2019年6月15日のサワコの朝。
ゲストは俳優の堤真一。
重松清原作の映画”泣くな赤鬼”が上映中。
2013年に結婚。
今は5歳と2歳の娘の父親。
堤真一が自身の父親を語った。
父親に負けた日
甲子園の近くに住んでいた堤真一。
野球は子供の頃からやっていた。
しかし、中学の最後の時期に指を骨折。
高校に入っても続けていたが1年生9月に退部。
目標を失い、不登校になってしまった。
両親は叱ることはなかった。
父親は熊本出身で無口な男。
母親はずっと喋っているタイプ。
対照的な両親だった。
両親は不登校を原因で怒らることはなかった。
ところが、おおらかだった母親が突然号泣。
母親の手がバイト先で腕が動かなくなってしまった。
何も言っていなかったが、堤真一のことを心配していたのだろう。
ストレスとなって身体に表れてしまった。
よく喋る母親からは父親の不満を聞いていた。
その為、堤真一は父親に反感があった。
父親に退学の決意を父親に告げる時、
「あんたみたいなサラリーマンになりたくないんじゃ~」
すると、
「サラリーマンの苦しみがわからん奴は何をやっても一緒や」
堤真一は負けたと思った。
その辺りから学校へ復帰することになった。
父親との最期の日
堤真一が19歳の時、父親が末期ガン。
高校卒業後、京都の養成所に1年行き合格。
つぎに、東京へ行くことになっていた。
父親がガンだとわかった時、余命1カ月と言われていた。
東京行き前、7月頃。
余命1カ月と宣言されてから9~10カ月が経過していた。
だが、まだ父親にちゃんと話をしてなかった。
父親は大正13年生まれ。
堤真一は父親が40歳の時の子供。
無口な父親との接し方に戸惑っていたいた。
その時の婦長さんが、
「あんたは好きな事をしなさい」と背中を押してくれた。
東京行く前日に父親に会いに行った。
堤真一が一方的に話すだけだった。
だが、途中で「おまえ今どうやって来た?」
「車で…」
コインパーキングは1時間しか停められない。
だから、早く行きなさいと急かす父親。
まだ来てから10分位しか経っていない。
時間はまだあった。
でも、もう話すことがなかった。
「明日から東京に行きますんで」
病室を出る間際に、父親は「元気でな」と言った。
堤真一は振り返ることができなかった。
最後の父親の顔を見ることができなかった。
病室を出ると、泣き崩れてしまった。
父親にはもう会えないと悟った。
父親はずっと見ててくれたっという思いが強い。
30代40代の時に、特に父親と話したかったと思った。
高倉健よりも無口だった父親
どうしてあんなに反発したのかと考えた時にわかった。
本当は父親のことを大好きだった。
子どもの頃、勤務先へ出かける父親に、
「いってらっしゃい」と声をかけた。
父親は、ただ手を上げるだけ。
高倉健よりも無口な父親。
態度でも愛情を表すことはなかった。
堤真一は嫌われていると思っていた。
怖かった。
嘘が通じない。
どこが嫌いだった?
いや、嫌いなところはなかった。
栄転を断った父親
小学2年生の時、父親が栄転し引っ越しすることになった。
堤真一は引っ越しを嫌がった。
内心は、転校することのも悪くないと思っていた。
しかし、堤真一の気持ちを思い、栄転を断った。
「行けへんのかい???」と思った。
父親はその後、万年平サラリーマン。
無口な不器用な父親が見せた愛情だった。
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