スポンサーリンク
2020年3月21日のサワコの朝。
ゲストは小説家の角田光代53歳。
小説家になったから30年。
「八日目の蝉」「紙の月」など映像化された作品もある。
平成になってから直木賞など数々の賞も受賞。
しかし、小説家として順風満帆ではなかった。
小説家・角田光代ができた過程を少しだけ紹介。
本との出会い
3月生まれの角田光代。
子供の頃は、自己主張ができない子だった。
保育園の時もアレがしたいとか、コレがしたいとか言えない。
自分の置かれている状況を説明できない。
角田光代が出会ったのは絵本。
最初は絵本を見ていれば、時間がつぶせる。
だけど、そのうちに本の魅力にはまった。
小説家になりたいと思った。
国語だけを勉強
小学2年で小説家になりたいと思った角田光代。
国語だけを勉強すればいいと思いこみ。
ほかの科目は勉強しなかった。
小学5年の時には、国語以外は意味不明。
算数がちょっとだけわかる程度。
小学5年で気づいて良かったかも。
忌野清志郎のような小説家になりたい
角田光代19歳。
日比谷のRCサクセションのライブ。
忌野清志郎の声と歌詞を聞いてファンになる。
特に好きなのが、「多摩蘭坂」。
サワコに忌野清志郎のどこがいいのかと聞かれると、
”月”の描写を褒めた。
月を、”君の口に似てる”という歌詞。
19歳の心を掴んだ。
こんな小説を書きたいと思った。
そして、「多摩蘭坂」から小説「坂の途中の家」が生まれた。
本が書けなかった3カ月
角田光代が小説家デビューしたのが1990年、23歳の時。
今では直木賞の選考委員もしている。
が、デビュー時は売れなかった。
書いても書いても評論家からけなされていた。
どんな感じでけなされたかと聞くと、
「難しい言葉でたくさん書いてあったが、要約するバカだ」
と言われたと言う角田光代。
ツラい話だが、
「小説をわかってない」とか「幼稚だ」ってことらしい。
こんなことを言われると落ち込む。
角田光代もどよーんと落ち込み、3カ月間小説を書かなかった。
その間の生活は、夕方4時に買い物し、自宅で料理。
晩酌を始め、夜中の3時くらいまで飲み続け、昼くらいまで寝る。
全くできなかった料理が本を読んで多少作れるようになった。
料理をしているってことが救い。
しかし3カ月後、飽きた。
料理ではない。
晩酌して夜中まで飲むのに飽きたのだ。
この時、角田光代27歳。
その後に書いた作品は、忘れたらしい。
おじいちゃん編集者の言葉
「希望を書かないといけない」
角田光代担当のおじいちゃん編集者の言葉である。
ずっと、作品を暗い、厭世的だと批評。
「全ての小説には希望が描かれている」と説いた。
「ホントかよ」と若い角田光代は思ったことだろう。
おじいちゃんだから説教したいんだと思っていた。
久世光彦で腑に落ちた
2002年に角田光代が書いたのが「空中庭園」
ドラマ「寺内貫太郎一家」などのプロデューサー久世光彦が書評。
「空中庭園」は嘘のない家族が、実は嘘だらけだったって話。
久世光彦は「だから何だと思ってしまう」と書いていた。
角田光代はおじいちゃん編集者の言葉が腑に落ちた。
「おじいちゃん、わかった!」と思った。
当時の日記に、
「世の中をどんなに信じられなくても、
汚いものに目が行っても世の中をキレイだと思っていいんだ」
覚醒した角田光代が書いた作品が「対岸の彼女」
失望だけで終わらせない作品となった。
起承転結、起承転結
角田光代は大作に挑戦していた。
紫式部の「源氏物語」の現代語訳。
3年間で終わらせるつもりが、5年かかった。
思いがけず長かったが「おもし、ろ、かった」との感想。
紫式部の女性に厳しい視線は今後の作品に影響を与えることでしょう。
しかし、5年間ずっと自分の作品は書いていない。
書き方を忘れてしまった。
今は、新しい小説をとりかかっている最中ですが、
「起承転結、起承転結…」と考えているところです。
新作までもう少々お待ちください。
スポンサーリンク