宮沢和史が島唄で伝えたかった戦争の悲惨さと永遠の凪の意味


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2020年8月10日のインタビュー ここから。

ゲストは宮沢和史。

THE BOOMのメンバーで島唄の作詞作曲家。

7月に東京の宮沢和史に沖縄からリモートでインタビューしてみた。

沖縄県立芸術大学と東京をリモートでつなぐ

インタビュアーはNHK沖縄の池間昌人アナウンサー。

沖縄県立芸術大学の講師をしている宮沢和史、今年度は一度も大学に行っていない。

最後に行ったのは2月の終わり。

沖縄に白雲節(しらくむぶし)という唄がある。

白雲に乗って遠い島にいる貴方に会いにいけたらいいのになという熱いラブソング。

今の心情をとてもよく表している唄。

本当に近くにあるし、毎月何回も何回も行ったことのある島。

今は本当に遥か遠く。外国よりも遠いところにある島になってしまったと感じる。

宮沢和史が初めて沖縄に行ったのが1990年

ちょうど今から30年前のこと。

3枚目のアルバム-ジャパネスクの時だった。

ロックバンドTHE BOOMは平成元年にデビュー。

デビューの翌年に初めて沖縄に来た。

ジャケット撮影をする為に。

当時バブルでにぎわっていた日本。

そんな時、日本を再発見したいと言う意識があった。

日本の土の香りがするアルバムにしたかった。

それが沖縄を訪れたきっかけ。

迎えてくれたのが水牛。

車を降りると目の前を通っていった。

ゆったりと能のようなスピードで歩く水牛。

緑や暑さも水牛の光っている感じも覚えている。

音楽を求める旅

それを契機に音楽を求める旅として何度も沖縄に行った。

ところが戦争の傷跡が意外に多くある事が解ってビックリした。

当時沖縄戦については無知だった。

それが戦跡を巡るきっかけになった。

ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆり平和祈念資料館

糸満市にあるひめゆりの塔。

この塔の下にある洞窟で動員された女子学生が負傷兵の看護にあたった。

ひめゆり平和祈念資料館はガマ(自然壕)を体験するような造りになっている。

それがものすごくリアルな体験を呼び起こした。

そこで亡くなられた方や生き残った方の手記を沢山読んだ。

そして語り部の方から話をたくさん聞いた。

県民の4人に一人が死んだ計算になるとか、集団自決、家族をあやめなければいけなかった話。

そういう話を宮沢和史は沖縄に来るまで何も知らなかった。

外に出ると糸満の風が吹き、さとうきびの畑が涼しげ奈音を出していた。

穴の中とのコントラストを恐ろしいと感じた。

それは悲惨と自然の美のコントラストだった。

沖縄と向きあうことを決意

僕らは平和が当たり前のように享受していている。

でも平和というのは過去の多くの人々の犠牲の上に成り立っている。

それは、過去の人々が柱になってくれているという事。

平和であることの背景を知らないといけない。

1993年の紅白で島唄(当時27歳)を歌う

宮沢和史は霊的なものは信じない。

島唄は沖縄や沖縄で亡くなった人たちから

何かを渡されて外に伝えてくれと出来上がったもの。

ウージとはサトウキビ。

ウージの森で出会った私たちが、どうして殺し合わないといけないのか。

ひめゆりの塔での体験をBメロに凝縮させた・

島唄のAメロは琉球音階、ㇾとラを抜いて作られている。

Bメロは、正音階にしている。

集団自決の責任は沖縄ではなく、日本にあるというメッセージを正音階に込めた。

島唄はミリオンセラーの大ヒット。

しかし、宮沢和史は沖縄出身ではない自分が島唄を歌う事の怖さを感じていた。

沖縄の人から批判されると思っていた。

あの当時、沖縄とやまとの間には見えない壁があった。

音楽家の間でさえ、交流するきっかけもなく、お互い心を閉ざしていた状況にあった。

そんな時、沖縄のシンガーソングライター喜納昌吉さんと出会った。

喜納昌吉「この歌は沖縄の心をつかまえている。魂までコピーしたらマネじゃない。だから、どんどん歌いなさい」

本土出身のミュージシャンだから伝える義務がある。

沖縄の人たちの痛みを知ることができるかどうか。

喜納昌吉さんの言葉を信じ歌い続ける覚悟ができた。

島唄で伝えたかった事。

「このまま永遠に夕凪を」

この沖縄を二度と戦場にしてはいけない。

沖縄には平和になる権利があると思った。

凪という言葉に祈りを込めた。

本当に平和を掴めばこの歌を歌う必要はなくなる。

しかし、この歌ができてから30年。

米軍基地問題は何も変わってはいない。

新たに基地内でコロナが発生している問題も加わった。

まだまだ沖縄に真の平和は訪れていない。

島唄を歌う意味がまだあることがツラい。

でもやらなきゃいけないし、歌いたい。

戦争で起きた事を伝えていかなければならない。

若い人たちに、戦争の無意味さ、戦争で味わった悲しみ、東京や関西で起こった空襲、長崎、広島が浴びた放射能、そういうものがあったんだよって、伝えなきゃいけない。

三線職人との対話

三線を弾くことによって沖縄のふところに入っていけたと感じた。

三線を作る職人と食事をしていた時、言われたこと。

島唄のヒットによって三線が売れるようになったと。

しかし、生産量の増大には別な側面もあった。

島唄のヒット以来、三線の原材料が輸入に変わったと。

職人のからかい言葉。

一同に笑いがおきた。

だが、宮沢和史は笑えなかった。

勝手に沖縄に貢献したつもりだった。

でも、負の部分も起こしてしまったのかと。

肝心な沖縄県産の木を枯渇させてしまった事に気付いた。

黒木(くるち)の植樹をしよう

古くから三線の材料として使われてきた黒木(くるち)の木。

材料として使えるようになるまでに100年以上かかる。

そこで始めたのが沖縄の各地に黒木(くるち)の木を植える運動。

地元の人と一緒に3000本以上を植樹した。

また、沖縄県立芸術大学では、沖縄の伝統文化を音楽に取り入れる授業を担当。

20代で島唄を作り、沖縄の歴史を知り葛藤してきた自分の経験を伝えたい。

今の学生の半分は沖縄、半分は本土出身者。

沖縄から渡されたバトンを自分なりの体験を添えて若者たちに渡していく。

よもするとと沖縄すらも失ってしまうものがある。

それを自覚した上できちんと次世代に残せないかなと思う。

島唄とか僕にできる効果は些細なもの。

でも何か感じてほしい。

戦争の痛みや悲しみを忘れないでほしい。

本当の意味での平和が沖縄にくれば島唄がいらなくなる。

そんな日が一日も早く来てほしいと宮沢和史は願う。

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