スポンサーリンク
2018年10月22日のyouは何しに日本へ?
3年前に取材したトラキチオオバさん。
祖父の足跡を辿りに来日。
番組スタッフの協力もあり親戚を発見。
今でも親交がある。
そのトラキチ・オオバさんからのお願い。
今度は知人のルーツを辿ってほしいって⁈
ルーツ辿りの旅
トラキチ・オオバさんから紹介された人物。
ギャリー・ソーサさん。
大学教授、57歳。
祖父の名前はマスダ・ヨネゾウ。
日本人の名前でしょう。
祖父のルーツを探しに来日。
マンスリーマンションで1か月滞在予定。
祖父の名は益田米蔵
ギャリーさんの祖父米蔵さん。
1905年、熊本からメキシコへ農夫として移民。
当時の写真もある。
これは祖母が亡くなる時に従妹へ渡したもの。
メキシコに渡った時益田米蔵さんはまだ15歳。
メキシコ人と結婚し、7人の子どもを授かった。
ギャリーさんの叔父フランシスコさん(米蔵の息子)。
米蔵さんから日本の歌を教わっていた。
それは「春が来た」
94歳で亡くなるまでずっと覚えていた。
どうして日本へ帰ろうとしたのか?
ギャリーさんは米蔵さんの話はよく聞いていた。
しかし11歳の時に父親が他界。
米蔵さんの資料を集めるようになった。
調べると不思議なことがあった。
1927年。
米蔵さんはロサンゼルスから横浜行きの船に乗っていた。
しかし、航海途中で亡くなる。
37歳だった。
子供が多く、貧しかった米蔵さん。
家族を捨てて日本へ帰ろうとしたのか?
日本へ帰ろうとした理由を知りたい。
3通の文通
ギャリーさんは日本領事館へ問い合わせ。
益田家の戸籍を手に入れた。
その中からまだ生きて居そうな人たちに手紙を書いた。
益田エツジロウさんから返事が来た。
米蔵さんの甥っ子である。
2006年から2008年まで3通手紙をやりとり。
しかしギャリーさんが欲しい情報は得られなかった。
1カ月前にもエツジロウさんへ手紙を送った。
「日本に行って訪ねてもいいですか?」
しかし返事はなかった。
エツジロウさんは亡くなったのでは…。
手紙の住所に行くが・・・
捜索1日目。
ギャリーさんの妻ミンファさんも同行。
熊本市に住む友人が車で送ってくれる。
エツジロウさんの手紙に書いてあった住所。
熊本県の美里町。
しかし、手紙の住所は空き地。
言葉が出ないギャリーさん。
数軒先の料理屋へ聞いてみるが、
益田家の行先はわからない。
でも有力な情報があった。
田崎市場に上田鮮魚店がある。
そこに益田タカシさんがいる。
タカシさんに聞けば何かがわかるはず。
くまもと田崎市場の上田鮮魚店
益田タカシさんに会えた。
孝司さんは悦治郎さんの弟の息子。
しかし、米蔵さんのことは知らない。
しかし父親なら知っているかもしれない。
孝司パパ(勇治郎さん)は現在老人ホームにいる。
ギャリーさん、勇治郎さんに米蔵さんのことを訊く。
勇治郎さん曰く、私よりも悦治郎が知っている。
ところが、悦治郎さんは入院中。
介護士さんが連絡をとってくれた。
明日の午前中にアポがとれる。
二日目 悦治郎さんが入院している病院へ
ギャリーさんは、急にカメラが入ると悦治郎さんが緊張するかもと心配。
先ずはカメラなしで、ギャリーさんが病院の中へ。
30分後、一緒にランチへ行くことに。
悦治郎さんとギャリーさん、顔の輪郭がそっくりと周りの人に言われる。
家族を捨てた理由
ギャリーさん、悦治郎さんに1925年に撮った米蔵さんの写真を見せる。
そうして米蔵さんが、何故、日本に帰ることになったのかを訊いた。
それはお金を預けるため。
お金を日本の家族に渡すため。
だから船長の日記に、スーツケースと寝具類と500円があったと書いてたんだと納得。
500円は現在の80万円相当にあたる。
1900年代初頭、出稼ぎに海外の農園に移民する人が増加。
米蔵さんも、そんな移民の一人だった。
単身メキシコの農園に渡り、言葉を覚え家族も持った。
22年間帰国することなく一生懸命に働いた。
そして貯めたお金を日本の家族に渡すために船上の人に。
しかし、念願叶わず帰路の船上で死去。
米蔵さんはメキシコの家族を捨てた訳ではなかった。
長男として日本の家族をも思い続けていただけだった。
ギャリーさんが悦治郎さんを病院へ送る。
そして密着スタッフに語った言葉。
これからも益田家との関係を大事にしていきたいと。
ギャリーさんと共に米蔵さんの魂も日本に還ることができたかも。
2015年8月の放送でした。
あれから3年。
時が経つのは早いですね。
スポンサーリンク